著書の紹介:英語が苦手なオジサンの海外一人旅

3カ月間の出来事

4月にパタヤの水掛けまつりに参加してからの3ヶ月間。本当にいろいろなことがありました。
おそらく、僕の人生の中で最も変化のあった3ヶ月間だったと思います。

ブログの趣旨からは外れますが、僕自身の備忘録として、この3ヶ月を記録しておきます。

新型コロナに感染

タイから帰国し、家に着いたのは、4月21日の昼。

少し疲れたかなという感覚はあったのだが、特に体調の変化はない。

夕飯の後、少し熱っぽかったけど、長旅の疲れだし、一晩寝れば回復すると思い、少し早めの就寝。
そもそも前日は飛行機の中で2時間くらいしか寝てなかったし。

しかし翌朝になっても、体調が回復どころか悪化。
熱を計ると37度を超えてる。
もしやと思って、抗原検査キッドで検査すると、バッチリ陽性反応。
新型コロナに感染していました。

オミクロン株は、感染から発症まで1〜2日らしい。

2日前の19日は、パタヤのワンライ。朝から水掛けに興じていた。
ホテルの部屋以外は、屋外かオープンエアのバービアに居たので、この日に感染したなら、よほど運が悪い。

20日は移動日。
朝イチで、ホテルからバスターミナルまで、バス会社のワゴン車で移動。
その後スワンナプーム空港まで約2時間のバス移動。
ハノイ経由で翌朝成田空港に戻ってきた。

空港までのバスかワゴンカーでの感染が怪しいが、知ったところでどうにもならない。

熱は3日ほどで引いたけど、その後2週間くらいは体調がイマイチ。
GWは、ほとんど何もできなかった。

捻挫と皮膚の異常

新型コロナの発症2日後。まだ熱があったけど、少し体調がよくなったので、寝汗を洗おうとシャワーを浴びた。
浴室から脱衣場に出ようとしたとき、めまいで倒れ、左足首を捻挫してしまった。

捻挫だし、痛みも数日で治るだろうと思ったが、2週間経過しても痛み残る。
普通に歩行するには問題ないが、少し無理な角度で曲げると痛みが走る。
レントゲン検査で異常はなかったが、今でもジョギング前のストレッチが痛くてできない。

新型コロナでの体調不良は、2週間ほどで回復した。
その直後くらいから、おヘソの横の皮膚に原因不明のかぶれができ、それが日に日に大きくなってく。

かぶれは、A5ほどまで広がったが、皮膚科で処方された飲み薬と軟膏で、なんとか治まってくれた。
だけど今でもかぶれの跡が残っている。

かぶれが治った後、今度は全身の蕁麻疹で悩まされた。
かぶれの薬の副作用かと思ったけど、違うようだ。薬を止めても蕁麻疹は治らない。
痒くて夜中に何度も起きてしまう日が続いた。

かぶれとは別の薬と軟膏を処方してもらったけど、なかなか治らない。
蕁麻疹には、2ヶ月近く悩まされた。

父が他界

GWが終わった直後の5月10日。父が入所している高齢者施設から、父が緊急入院したと電話があった。
持病の悪化だった。

入院したのは実家のある地方の総合病院。
実家は、飛行機や新幹線を使わないと行けない地方にある。

すぐに駆けつけることはできなかったけど、担当医と電話で話すことができた。
容態は芳しく無くて、これから1週間程度ヤマだと言われた。

面会を希望したが、関東からの面会者は、地元に1週間滞在した後でないと面会できないと言われた。

新型コロナが5類相当に引き下げられたとか、関係ない。
地方の病院はコロナ規制が続いているとの理由だが、地元以外の人を、未だにバイキン扱いする地方の非合理さにあきれてしまった。

流石に納得できず、PCR検査の陰性証明書があれば良いだろうと食い下がると、地元で受けたPCR検査の陰性証明書があればいいとの回答。

そこで、どこでPCR検査を受ければいいのかと聞くと、その病院の近くにはないと回答。
どうやっても、地元以外の来訪者は病院内に入れたくないようだ。
理不尽すぎる。

幸い父はヤマを乗り切り、2週間後に転院することになり、転院先の病院で面会することができた。

しかし6月中旬。
朝3時に、転院先の病院から容態の急変の電話が入った。
朝イチの飛行機に飛び乗ったけど、結果的に父の最後には立ち会うことが出来なかった。

地方の葬儀は、喪主の負担が大きい。大小さまざまな決定をする
特に、コロナ禍で取りやめていた地方独自の葬儀風習をどこまで執り行うかは、様々な意見があって判断に苦しんだ。

プロジェクトマネジメントを生業にしている自分でさえ大変なのだから、普通の人の大変さは如何ほどかと思う。

定年退職と独立

6月末。20年間勤めた会社を定年退職した。

嘱託として再雇用される道もあったけど、あえて退職し、個人事業主になることを選択した。
その決断に至る心情の変化は、電子書籍の方を読んで頂きたい。

5月中旬に再雇用条件が会社から提示され、それを受諾しないと、自動的に定年退職になる。
個人事業主になることを事前に会社に伝えていたので、当然かもしれないが、提示された再雇用条件は、とても受け入れることが出来ない内容だった。

僕は定年退職後も、現役時代のプロジェクトに立場を変えて参画する。
現域時代とほぼ変わらずに、仕事を継続することになっていた。

ただこの事は、一部のひとしか知らなかった。
総務から人事の公示までは公表するのを控えてもらいたいと依頼されたためだ。

公示が社内ポータルサイトに掲載されると、事情をしらない人から沢山のメールをもらった。
みんなこのまま引退すると思い、驚きのメールだった。
ありがたかった。

個人事業主としての独立手続きは、想像以上に簡単だ。

平行して設立した法人は、いろいろ面倒なこともあったけど、作業自体は本当に楽しくて、苦になるものではなかった。
その辺については、別で記事や書籍にしようと思っている。

膵臓がん検査

5月に受けた人間ドックで、膵管肥大を指摘された。

検査結果に書かれていた「膵管肥大」とは何なのか全く分からず、ググってみて驚いた。
膵管肥大とは、読んで字のごとく膵臓についてる膵管が拡張することで、膵臓癌の症状の一つだ。

さらに膵臓癌をググったら、癌発見後5年の生存率が50%と出てきた。
悪玉コレステロールの値を無視してきたオイラだけど、これには正直焦った。

早速再検査のMRIを予約したが、検査日の3日前に父が他界して、検査の2週間延長を余儀なくされた。

再検査の結果、膵臓癌の可能性は低いが、疑いが完全に払拭されていないので、再々検査を受けるようにと指示された。

しかし・・・。

6月で定年退職したオイラは、設立した会社の保険証が届くまでの間は、手元に保険証がなくて再々検査が受けられなかった。

ちなみに、法務局の法人登記に約10日、その後に年金事務局で手続きをして、新しい保険証が届くのに更に約10日必要だった。
結果的に再々検査を受診できたのは、8月に入ってからだった。

検査の結果の説明を聞いて、膵臓癌の疑いが晴れたときは、本当に安堵した。
今思うと、何をするにもモチベーションが落ちていたと思う。
いつもどおりの生活をしていたつもりだったけど、意外と気にしていた自分にびっくりした。

最後に

このエントリーの草稿は、地元の空港のラウンジで書いています。
父の新盆を終え、実家にある父の遺品もだいぶ片付けることが出来ました。

明日からは仕事に復帰するし、ブログの更新頻度も上げていきたいとおもいます。
これからも本ブログを、よろしくお願いいたします。

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